バンド名の読み方について  2006/04/04(・E土)
井上 太志 さん(東京都)からの質問です  2006/03/27(・E木)


バンド名の読み方について
こんにちは、○○○○というものです。

質問があります。僕は最近、フィンランドのHCをむさぼるように聞いているのですが、BAND名が読めなくて困っています。

そこでクラストやフィンコアに詳しいチョッパーさんに下記のBAND名の名称を伺いたいのですがよろしいですか。



・TAMPERE.SS

・TERVEET KADET

 よろしくおねがいします。


という質問が来たのですが、「Q&A」のコーナーが出来る以前の質問で、質問者に採用していいかを尋ねたのですが、返信が無い為、冷やかしの架空の名前なのか、実在しているがなんらかの問題でメールが届いていないのかは分かりませんが、とりあえず匿名という形で採用します。
以下、回答です。

まず初めに誤解があるといけないので言っておくと俺は全然バンドの事とか詳しくないし、というか逆に情報量だけの薀蓄ばかりの奴は格好悪いと思っているので自分に必要な情報にしか興味がないです。
例えば俺がパンクに興味を持つきっかけになったのは、「E.N.T.」ですが、いまだにボーカルの名前すら知らないし、特に知る必要も無いと考えています。
べたかもしれませんが、パンクはアティテュードだと思っているので今も共感していますが、音楽としては最近あまり聞いておらず今回メール貰ったので久しぶりに「TERVEET KADET」を聞きましたが、多分十年以上ぶりになると思います。
俺も若いときに同じ様に読み方が分からず興味を持っていて当時はネット環境も無く基本的には人伝いに聞いて調べたりして勝手に「ティービート カデット」と呼んでいましたが、今回友達に聞いた所一般的に日本では「タービート カデット」と読む事が多いらしく、また向こうの人の発音では「テルビート カデット」の様になるらしいです。

関係ないかもしれませんが、例えば同じ「DISCHRGE」でも関東方面の人は、「ディスチャ↓ジ」と下がりますが、関西では「ディスチャ↑ジ」と上がる様に読む人が多いです、またスカンジナビアの方では「ディスチャルゲ」といった感じの呼び方をするそうです。

「TAMPERE.SS」はそのまま「タンペレ エスエス」と読むことが多いらしいです。

クラストが好きだという事で知っているかは判りませんが俗にメロコアと呼ばれてるジャンル(ジャンルという垣根は本来くだらない物だと思いますが、現在では分けざる得ない部分も仕方が無いのかも)のバンドで「NOFX(ノーエフエックス)」というメロコアシーンでは凄く有名なバンドがいるのですが、俺が若いときは「メロコア」という言葉も無くメロディックな感じのするパンクバンドと言ったりしていて、読み方も勝手に「ノフックス」とか言ってたりしました。

大事なのは薀蓄ではなく、本当に自分の感性でそれらの音楽をすきかどうかで、若いときはレコードの枚数をたくさん持っていたら凄いとか、どれだけの音楽に対する薀蓄が語れれば凄いとか勘違いしがちですが、そんなの本末転倒していて、音を楽しむという「音楽」の本質からかけ離れてしまうと思います。

という事で一般的になんて呼ばれているとかはどうでも良い事で、自分が勝手に好きなように呼ぶのもありではないでしょうか。

そういう事からも純粋な興味なのなら好奇心を持つ事は凄くいい事だと思いますが、たまに度を越えてしまい本末転倒してしまう人達もいるのでそうならない様に気をつけてこれからも「音楽」を楽しめたらいいのではと思います。

Date: 2006/04/04(・E土)


井上 太志 さん(東京都)からの質問です
質問なのですが、whateverのデサインの根本は欧米やアメリカなどのアート・デサインの考え方と似ていると思うのですが、
それはチョッパーさんが仕事などでヨーロッパに行ったりした時に回りの人から影響をうけているのでしょうか??
例えば欧米の価値観だとそういった芸術作品を評価する際その作品がどういうことで作ったかということや作品にたどり着くまでのリサーチの内容などを重点てきに見たりするみたいです。今の芸術大学では作品のできよりもそういったことを重点的に見たりするところもあるみたいで・・・。
作品も大事だと思うのですが・・・。
それをふまえた上での作品にしか意味がないと。
日本の今現在のアート・デサインの教育ではそういったことを教えているところは少ないみたいです。
チョッパーさんは今のそういうデサインの教育をどう思いますか??



質問くれた事に関してですが、あえて文化圏で区分けすると確かに俺の考え方の基本は、欧米的な発想力に近い場合が多いと友達にも言われますが、基本的には若い時に情報を疑う事を知り、意図的に情報をシャットアウトし、D.I.Y.の発想で構築してきたもので、論述化されたアートフォームとしてカテゴライズされた物に影響を受けた事は殆ど無いです。
例えば若い時に影響を受けたCRASSですら、雰囲気とフィーリングしか拾っておらず、掘り下げた事など一度も無いです。
例えばペニー・リンボー(CRASS)等といった人の名前すら最近知ったしCRASSの歌詞をちゃんと訳してみた事すらないです。
昔からずっと好きなバンドでもいまだボーカルの名前も全然知らなかったりします。
そういう事からも、哲学や芸術の中の技術論・方法論等には影響と言うよりも、「たまたま同じ考えを持った人が昔から存在しててんな〜、やっぱり本質に対するベクトルさえ間違わず努力さえ怠らなかったら行き着く先は結局同じ」と捉えています。
簡単にまとめると、「D.I.Y.」の発想というのは主体性を持つという事で、その主体性を明確に持つという事は、人に流されたり長い物に巻かれにくいという事で、そうなると単純に長いものに巻かれやすい国民性を持つ一般的日本人に比べると差異が必然的に生まれる為で、その差異というのは、別に欧米文化というよりも欧米の主体性を持った国民性に近いということかと思います(勿論、国民性と文化性はリンクしていると思いますが)。
という事で俺の発信している情報は、ルーツやバックボーン的な物はPUNKの影響が強いですが、基本的に俺オリジナルで、たまたま同じ考えの人達がそれを論述化している場合があると思っています。
あえて言うならD.I.Y.論(そんな物あるかどうか知れないが、まさに俺が構築しようとしている事)に1番影響を受け、それが全てに繋がっていると考えています。
で質問に対する結論を言うと、作品に対する論的正当性が無い物は、ある意味評価に値しない、という考えはまさにその通りだと俺は考えています。
というと誤解生まれるので長くなりますが、どういう事か説明していきます。
例えばPUNKやROCKのシーンでも、「理屈じゃねえっ!!」と言う人を肯定するか否定するかと同じだと思いますが、SK8や芸術、その他あらゆるシーンでも同じ様な事が言われます。
ですがこの「理屈じゃねえっ!!」という一言も文章が簡素過ぎる為、より理解の幅が狭くなりがちで抽象性を帯びた・・・・、と言語学的発想に飛躍しそうなので話を戻しますが、シンプルに結論から言うと質の高い物も、低い物も、物理法則に従っているというのは普遍の事実だと考えていてます。
が、その中でその物理的優劣を論述化する能力の有無と作品の質の高さは比例しないという事です。
例えば皆は、林檎が木から地面に落ちるという物理的事実を正当性の有る事実として万有引力の法則と認知しているはずですが、じゃあニュートン力学を持って証明出来るかというと一般人には出来ません。
それと同じ事で音楽を聴いて「いいものはいい、理屈じゃねえ!!」というのは、仮にその音楽の質が高くても、たまたまその人がその正当性を論的に立証できる能力に乏しいだけで、事実としての物理的な質の優劣は別問題です。
そんな中何故「論述化出来る作品で無いと説得力が無い」かを俺なりに説明します。
まず大学等のアートスクールで物事を学ぶというのは、その道のエキスパートにならないといけない訳で、という事は子供の遊びレベルじゃなく文化的発展やその他諸々の事にも向上心と生産性を持ち、また後に続く人達の為にも論述、体系化したりする事に取り組まなくてはいけない(例えばここ数年で流行りだした「ミクスチャー」(音楽に限らず)というスタイルは、それらを構成する各エレメンツがすでに体系化(ある意味ジャンル分け)されているおかげによりスムースに構築が可能、単純に言うと「体系化=文化」で、それを否定してしまうと、俺らは未だ原始時代の生活を送っている事になる)という義務が発生する(勿論この義務を放棄し子供の遊びレベルで物を作るなら、学校を辞める権利は自身にある)。
そこで一旦話を林檎の話にもどし考えた時、「林檎は、自然に落ちたのではなく、何らかの外部要因が働いている(引力や重力)」という事を何故立証しなくてはいけないかと言うと、それこそ「林檎は、神の力で下に落ちる!!」という奴や「林檎は俺の念力で落とした」、「いやいや、俺の念力で皆が死んだ50年後、地面ではなく空に向かって飛んでいく」といった意味不明な説得力の無い事を言い出す人がたくさん出て来ても、全て肯定せざる得なくなる事が筋道となってしまいます。
そんな奴らの中、そこに物理的事実という真実があろうが無かろうがに関わらず、個人的持論を何千回叫んでも正当性は立証出来る訳も無い。
という事は、自分の正当性を認めさせる為には、努力を伴う論理的立証という一つのルールを設定しないと現時点の世の中では他に方法がない。
一見面倒くさく見えますが、実は逆にメリットもあり、努力はしたくないインチキまみれの中途半端な自称アーティストをふるいにかけるという役割も果たしています。
そうすると次に、真のクリエイティビティにあふれた人が創り上げた物でも、作品が抽象的である場合、たまたま理屈が苦手な人は説得力を持たすことが出来ないという問題が出てくる様に思いますが、だからこそ俺は、たまたま理屈を述べる事が出来たのでそういう人の代弁が出来ればと思っていて、こういう場を借りて実は質が高いのに大衆性という論的根拠の伴わない物により迫害されがちな身の回りの本物志向の人の創る物の正当性を代弁が出来ればと思い主張するのです。
まさに本来の芸術評論家の存在価値はそこにあるはずです(理想と現実は違い、情報量だけが全てになっている質の低い評論家が多いかもとも思いますが)。
だから俺はよく「TEXT」のコーナーの中で、たまに「自己認知しているかどうかは問題ではない」と言う事を書いていますが、まさにそういう理由からです。
そういう考え方からも、仮に抽象的でも本質的に筋の通っている質の高い物なら、本人が論的に証明しなくても自然とその作品や制作者の熱意を拾った第三者が論的に評価する、また逆にそこまでの熱意が伝わらない質の低い作品は、誰も評価しない事により自然淘汰される。
それらを総合的に考えた時、やはり論的評価は現時点においては、芸術を高める為の一番の手段の様に俺は考えています。
例えばダダ、ポップアートといった概念自体を創り上げてきた人達は、真の創作として評価できる部分もあるでしょうが、それに乗っかってるだけの今時の先進国の若者の作る根拠の無い抽象作品は本当のゴミで、資本主義をベースにした飽食社会の副産物の場合が非常に多いと俺は考えています。
またこれらの考え方は、始めに述べた通り何らかの書物などの引用ではなく俺の独自の発想ですが、まさに物事の本質は同じなので、推測するにおそらく似たような考えの下、アートスクール等でも論述化できる事を絶対条件にしているのではないでしょうか。
ただこれも推測ですが大半の講師や助教授等は、俺の様に自分自身でこれらの考え方を構築したのでは無く、先にあった情報を単的に生徒に伝えているだけの理論武装だけのレベルが多いのではという気もします。
そんな中、高いお金を払って学校にいくのだから、まさに「D.I.Y.」の発想をしっかり持って自分自身がしっかり取り組まないと、創作家ではなく、商業デザイン製造家と化してしまうので気をつけて下さい。

さらに話が変わりますが、何故これらの考え方、今回の様な質問に対する回答が世の中で一般的に認知されていないかを言うと、例えばSK8で言うと「マーク・ゴンザレス」と言う人がいるのですが、彼は一般的にアーティスティックで抽象的な滑りをするという評価をされているのですが、実は大半の人は、どこがどう凄いか分かってないくせに、みんなに流され合わせて、「雰囲気がやばい!!」とか分け分からん言葉で分かったふりをして誤魔化している人ばかりです。
じゃあ「マーク・ゴンザレス」が偽者なのかと言うとそうではなく、俺は凄くリスペクトしている部分もあり、実際に彼の滑りの何がどう凄いかをちゃんと感じていて論述する事も可能です。
それは、俺が理屈が得意だからと勘違いする人もいると思いますがそうじゃありません。
どういう事かというと、SK8に対して技術論だけでない所で五感を駆使し感受性を高める事を意識し大衆性に流されず自分自身で常に叩き上げ、戦ってきて努力して皆が拾えない物を拾える所まで鍛えてきたからで、そんな中さらに努力して理屈を身につけてきたからです。
例えると俺らの分からない域まで努力して鍛え上げた凄い書道家が大きな等身大くらいの筆で単純でシンプルな数字の「一」とだけ書いた質の高い抽象作品があったとして、評論家が論述してくれれば何故凄いかは「理解」は出来たとしても、努力により感受性を高めていない人には自分自身の力でその凄さを「感じる」事は出来ないでしょう。
単順に考えて何の努力もしていない人に感じられる分けもないし、唯一できる事は金に物をいわせてその論述化された書物を買って理解する事により、「感じた」気分を味わう程度。
感じる事と理解する事は異質の物。
それらの発想から、俺がもし「マーク・ゴンザレス」の事を論述化して何の努力もしていない人に何が凄いかを理解させるなんてまさにナンセンス!!ではないでしょうか?
それこそ「理屈じゃねえっ、感じる努力をしろ!!」と言う事だと思います。
要はそれぞれの事柄を論化できる事実や能力がある上で、意図的に論化しない事と、努力の不足や事実として整合性が無いので論化出来ない事、とは根本的に別次元だと思います。
そういう事からも同じ「理屈じゃねえっ!!」の一言でも時と場合により、説得力があるか無いかは180度違ってくるというのが結論ではないでしょうか。


中途半端な揚げ足取りの自称芸術家を自己完結させて納得させない為に言いますが、物理的事実であっても現在の物理学的発想で証明出来るに至っていない事柄も世の中にはたくさんあるのと同じで、事実として質が高くても余りにもの複雑さと抽象性ゆえに、現在の芸術論や言語学の範囲で論述化出来ない事も存在はすると思いますし、そんな事分かった上で話をしているので、だからといって根拠のないゴミ作品が評価の対象になる訳ではないし、そんな誤魔化しがきくほど世の中は甘くないので勘違いしないで下さいね。
こんな事言われて「むっきぃ〜〜〜、俺様の作品の凄さを屁理屈でねじ曲げようとしやがって、ぶち殺す!!」と逆切れしながら、泣きじこり(crying‐wank)している、努力を知らない自称芸術家の姿が目に浮かびますが、そんな奴を論破する為に時間を割くほど俺はお人好しではないので、これ以上論述化して証明しませんのであしからず。

と言う事で大体言いたい事はつかんで貰えたかと思いますが、いつも言うように俺は国語や文章は得意ではないので、その部分でつかめない所は、申し訳ないですが何度も読み直してもらい少しでも俺の言いたいニュアンスを理解してもらえれば嬉しく思います。
ある実験でメール等の文章と言うのは、筆者が伝えたい事の五割程度しか実は読者に伝わっていないらしく何故かと言うと、書き手も読み手も自己中心的な人が多いから、らしいです。
そういう事からも俺は国語が苦手なのは自分の責任と認識しているうえ、極力自己中心的にならない為にもこの長くて面倒くさい文章を何十回も読み直し手直ししているので、本当に理解したいなら読み手は更にそれを上回る以上に読み直して理解する努力をするべきだし当たり前の責任だと思います(当然の事ですが読み手より書き手の方が数十倍時間がかかりさらに大変だと言う事も理解して下さい)。

色々書きましたが結論的本質はいつも言っている事と同じで、本当の質の高さとは、結果は常に努力量と正比例する事を理解している人が「論理と感性の調和」を根底に創り上げた物、だと俺は考えています。
分かりやすく言うと「バランス」の一言に集約できるのではないでしょうか。

このサイトを見てくれている人は、井上君に限らず色々な物創りと向き合っている場合が多いと思いますが、これからもみんなも常識に縛られず色々な創作活動がんばって下さい、宜しく!!





Date: 2006/03/27(・E木)


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