世の中には、音楽、舞踊、絵画、文学などなどのあらゆる方法で物事を表現する方法がありますが、たまたま現時点でWHATEVERの伝えたい事に用いる媒体が「服(服装)」であったに過ぎません。
また、単に「服」といっても、例えば音楽にクラシックもあればハードなロックやラップミュージック、さらにはそれらにくくる事の出来ない実験的な物や抽象的な物まで多岐に渡るのと同じく、多種多様な捉え方があります。
そういう事からも、一口に「服」といってもデザイン性や実用性だけが服の全てではないと考えています。
分かりやすい所で例えれば、反骨的なメッセージ性の強いロックバンドのTシャツをボロボロになるまで着ている人であれば、その人自身も反骨精神を重要視している人間である可能性も推測できますし、逆に流行に乗っただけの刹那的なデザインの服を着ている人は自己意識に乏しい人である可能性が推測できたりもします。
さらに多角的な視点で深く考察する事により、言葉を交わさずしてその人の価値観や人格などの内面までもが推測できるようになります。
それはまさに「服(服装)」が次世代のコミュニケーションツールとしての可能性も秘めているのだと思います。
WHATEVERでは、「服(服装)」の価値の重きをそういう所にも置く事こそ真の最先端と捉え運営しています。
さらに極端に言ってしまえば、「WHATEVER」とは既存の方法にとらわれない創作活動の名称でしかなく、服のブランドだとすら考えていません。
そういう事から適正適所、柔軟で流動的に表現媒体を替える事も拒みません。

WHATEVERでは、一般的な服作りの中で重要視されているデザイン性や実用性は単一的で表層的な物が多く、すでに本当に必要な要素の飽和点を超えている部分も多いと考えています。
具体的に言うと、本来の物の価値とは自身の五感で感じ得れてこそ意味があるはずです。
仮に機能性や着心地を求めるなら、その素材が安いか高いかが伏せられていても自身の肌で感じ心地よいと感じてこそ価値のある物になります。
また、デザイン性においても最新の物であろうが10年前の物であろうがブランドタグが伏せられていようが関係なく、自身の目で見て感覚的に感動するデザインであってこそそのデザインの持つ真の価値であるはずです。
ですが、今の世の大半の人は自身の感受性で目利き出来無い事が当たり前になり、第三者の貼ったレッテルのみが品質の基準だと勘違いし、その物に対する情報がないと服を一つ買う事すら自分自身で判断できないのです。
自分で目利きが出来ずにその物の価値が分からないなら無理して高いお金を出さなくても自分に見合った服を買えば良いはずです。
ですが、世の現実はそうではなく、分不相応な背伸びが好きな人ばかりだと感じざるをえません。
しかも、その物を買った後に購入前に得た情報をまるで自身で感じ得たかの様な錯覚を起こす事により、輪をかけて目利きの力を養う事から遠ざかっている事に全く気がついていません。
“情報”に落とし込まれている時点ですでに二次的な物なので、情報に頼っているだけでは必然的に真の最先端に成り得ない事に気がついていないのです。
そういう意味では、それらの物事の在り方の大半は必然的に時代遅れで無意味だと言えます。
さらに言うと、無意味どころか場合によっては分不相応で不必要な大量消費により地球環境などに負担を強いている場合なども多いのではないかと考えています。
真の最先端の文化としてのファッションを考えた時、そんな事にも意識を置かずに「見た目(視覚)」の小手先を変えただけのデザインを乱発・消費する事が最先端なはずはありません。
重ねて言うと、本来、若者にとって重要なはずの感性を育てるという行為は「見た目(視覚)」だけではないその他の「嗅覚」・「聴覚」・「触覚」・「味覚」、の五感、さらにはもしかすると現時点で証明されていないに過ぎないだけかもしれない第六感的なものも含め全てを駆使する事と、第三者から得た情報レベルではない、実体験の努力量に準じた情報収集量の多さと、それに伴う取捨選択能力などの処理能力を鍛え上げる事とが相まって成されるはずです。
ですが、今の世の大半の流行ばかりを追いかけている人達には「五感分の一」に過ぎない「見た目(視覚)」ばかりが重要視され、またそれを単に「お金を払う」という行為のみを引き換えに自身の感受性を満たしきった錯覚を起こしてしまっている人が大多数なのが現実ではないでしょうか。
若者がそんな錯覚を起こしている事にすら気がつかないでいるのには大人の責任が大きいのだと思います。

WHATEVERではそれらの現実を前提に真の最先端にも意識を置き運営しています。
なので真の意味で時代遅れな「上っ面(見た目)」ばかりが重要視されている一般的な視点で見ると、WHATEVERの創る物は先を行き過ぎているが為にデザイン性が乏しかったり古臭いと誤解される物も多いでしょうし、必然的に理解者は少なくなってしまいます。
それは歴史の事実を踏まえ想像力を使うとパイオニアの宿命だという事を理解するに難しくありません。
だからこそ、歴史の繰り返しの輪から少しでも逸脱すべく、新しい手法を模索する事がWHATEVERの目指すべき真の創作だと考えています。

WHATEVERの創る物の中には、D.I.Y.生産(ハンドメイド)の物もたくさんありますが、ハンドメイドと聞くと技術力に対する批評や目先のコスト計算ばかりのウンチクをぶつけてくる人もいるでしょう。
Tシャツなどの素材の品質の事をインターネットで調べ「産地は〜の国の〜オンスの物だから、原価は¥〜程度のはず、なのに値段が割高だ!!」と目に見えた数字の単純な足し算・引き算でしか物事をはかれない人もいるでしょう。
仮にその辺に捨てられていたすばらしい模様の素材を拾ってきて、上手に再利用して創ったすばらしいアイテムにその創作力と手間隙に見合った価格を付けて販売すると「落ちていた物に値段をつけるなんてぼったくりだ!!」という発想でしか物を語れない想像力を失ってしまっている人もいるでしょう。

本当に大事な物事の本質とは何でしょう?
そう、目に見える物だけを寄せ集めて理屈を並べ立て相対的に物事を図った結果や、たった60億分の1に過ぎない個人の経験や、常識という狭い枠組みの中で合理的に判断できる事、だけが真実だと思い込んでいる想像力に欠けた人が世の大人の大半なのです。
いつかの昔にその時代の科学者が「空気」の存在を発表してからでないと、その人の真実の中では「空気」なんていう目に見えない物は存在しなかったのです。
みんな世の中には目に見えなくても事実として存在している物がたくさんある事がわからなくなってしまっているのです。
想像力も使って物事を捉えるという事が出来なくなってしまっているのです。
「本末転倒」という言葉自体は頭の中にたくわえていても肝心の意味を知らず自分自身がまさか「本末転倒」しているなんて想像すら出来なくなってしまっているのです。
皮肉でも何でもなく、事実を言うと思考停止してしまっているのでしょう。
そんな人達はWHATEVERの物創りに価値をおけないかもしれません。
そんな多数派の人達の比率は摂理に沿って不偏であろうとわかりつつも、あえて表現し続ける事により、少しでも真の「感性」や「想像」や「創造」の意味に気がつき、また物事の本質を見抜く力を持った若者が増えれば自然と世の中は調和の取れた方向へ向かい進歩するのではないかと勝手に想像しています。

WHATEVERでは「目には見えにくくても本当に大事な物事を伝える物創り」こそが「真の最先端」の創作活動だと捉え、お金儲けに都合良いが為に使われる多数派の言う「マッハゼロの最先端」を尻目に本当に大事な物事の本質を追求すべく運営していく事を目指しています。

これは、ハンドメイドによる非効率的な生産手法のいいわけでもなく、宗教の話でも無く、価値観の合わない人達に対するネガティブな中傷でもありません、勿論、お金の損得のはなしでもなければ、単に純粋な感性の話なのです。